伊江島・人形館
伊江島の紹介ブログ
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「伊江島」の「イエ」、島名の謎
人形館的伊江島史
伊江島の「イエ」、その島名の語源を探ってみた

1471年に刊行された李氏朝鮮国の史書「海東諸国記」の
「琉球国図」には「泳嶋」と記載されています、

アケじい、浜崎貝塚発掘作業ご苦労さん、アケじいの評判は
すこぶる悪かったよ、
その1、作業中にラジオをつけっぱなしにして聞いている
その2、作業中にカラオケの練習をしている
その3、一日中しゃべりまくる
その4、きつい仕事は「給料が安い」とかいってすぐ逃げる
などなど・・

そのアケじいがある日こんなことを言っていました「この浜崎
貝塚人ってどんな言葉を喋っていたのだろう」と、そう、答え
はこの古代貝塚人達の言語にあるのです、
沖縄の古い言葉、古代言語は大きく3つの年輪に区分される
と考えられます
1、最下層的言語→ 縄文時代相当期に使われていた言語
2、上代日本語的言語→ 弥生時代相当期以降の渡来者達
によって広まった言語
3、中世日本語的言語→ 11~12世紀頃、新たな渡来者達
によって広まった言語
※参考文献 仲松弥秀「神・村・人」 吉成直樹「琉球の成立」など・・
沖縄の縄文時代相当期に使われていた言語、最下層的言語は
実は現代でも残っているのです、それが北海道の「アイヌ語」と
日本各地に残る「アイヌ語的地名」なのです、
そもそも「伊江」という用字で地名が登場するのは1650年に編
集された「中山世鑑」になります、
「中山世鑑・玉城の条」の一部
「今帰仁按司自称山北、而羽地名護国頭金武及伊江伊平屋等
従山北為・・、」つまり、今帰仁の按司(領主)が自称「山北」
を名のり羽地、名護、国頭、金武及び伊江、伊平屋などを従え
「山北(北山)」とする・・、ということになります、
北山が史実として登場するのは1383年中国(明)の公文書「明
実録」に記載があり、この「中山世鑑」が編集されたのは1650年
の事で明実録の記載とは267年近い開きがあります、つまり「中山
世鑑」の「伊江」とは編集当時すでに伊江島が「伊江」と名乗って
いたから「伊江」と表記されたわけで実際に北山国が「伊江」とし
て表記していたかは定かではないようです、※参考文献 伊江村史


伊江島は方言つまり琉球語では「イイジマ」と発音します、琉球
古典音楽に「伊江節」なるものがあります、伊江島の歌です、これ
をカタカナ表記すると「イヰブシ」で「イ」と「ヰ」では違う発音
なのです、つまり、伊江は「イ」とか「イー」とかの一つの音では
なく「イ」と「ヰ」の二つの音で成り立っていることがわかります、
僕、田増も古典音楽を習った事がありますが普通に「イーブシ」
と発音したら師匠に大変おこられました、(/_;) しかしながら「お
もろそうし」には「ゐ島」という表現もあります、が「い」ではな
く「ゐ」で表現していることで二つの音で成り立っていると推察で
きるのです、
「伊江」は「イ」と「ヰ」の2音から成り立ってる、それを重視し
た当て字が「伊江」という漢字なのでしょう、ではいつから「伊江」
という漢字が当てられたのでしょうか、それは 地名を明確に記さ
なければならない理由できた、そしてそれは行政区画の整備と検地
が行われたという事です、それを行ったのが第二尚氏王統第三代王
尚真(在位1479~1526)なのです,
尚真王は琉球国において初めて中央集権体制を確立し、地方も間
切り、シマという行政区画に整備しています、この時こそ「イヰジ
マ」に「伊江島」という漢字が明確に当てられた時期と考えられます、
伊平屋島や伊是名島には島名に本来の意味を持たせてあった、しか
し、イヰシマの「伊江」とは当て字であり本来その意味はないもので、
このことに反証できるものがあるのでしょうか ,

尚真王の基盤と偉業を継承したのが次代尚清王(在位1527~1555)
でした、そしてこの尚清王に初めて伊江姓をなのる伊江王子(唐
名尚鑑心)が誕生したのです、しかしこの鑑心さん、次期王位継
承をめぐる権力争いに敗れ失脚し伝記も残っていません、そして
次に伊江姓を継ぐのが弟の伊江王子朝義(唐名尚宗賢)でした、
この伊江朝義が中山琉球王国としての初めての伊江島の按司
(領主,在位1559~ )であり伊江島で初めての琉球王国による直接支配
が始まったのです、 ※参考文献 伊江村史
この伊江王子朝義が初めて「イヰジマ」の領主になったから
「伊江島」という漢字としたのか、あるいは領主になる前にすで
に「伊江島」という漢字があり、そこの領主となったから伊江王
子家と名のったのかは定かではないのです、
いずれにしても「伊江」という用字は尚真王以後のものである
ことには間違いないものと考えられるのです、
伊江島の語源については諸説あります
石間(いしま)説 ― 伊江村史にて論考
伊江島は見るからに石の島です、その「石」と行政区画の「間
切り」とを合わせて「石間」とよばれ「いしま」から「いーしま」
へと転訛したと推察するもの、行政区画の「間切り」とは現在の
市町村またはその2つか3つを合わせたぐらいの範囲で「シマ」とか
「ムラ」は現在の字(あざ)に相当するもの、実際に鳩間島、波
照間島、慶良間島という島名や内間などの地名に「間」がつくも
のが多くみられます、しかし、もし「イヰシマ」が「石間」と呼
ばれていたならば「慶良間島」「波照間島」というように「石間
島」として島名が残っていたのではないでしょうか、また「間切
り」という行政区画も前出のように尚真王あたりからのもので古
琉球の歴史としては比較的あたらしい制度であって「イヰシマ」
「イヰの島」と呼ばれ始めたのは、間切り制度が始まるもっと古い
時代からの呼称で、沖縄本島北部にはそういう古い地名がいくつも
残っています、また「石間」という漢字表記をうらずける文書もみ
つかってはいないようです、

間島」「西(イリ)島」「石島」もおおいにあり得る説と感じるのです
飯島(いいじま)説 ― 宮城真治(沖縄地名考)
沖縄民俗学の宮城真治氏は伊江島のほとんどが平坦な大地で
昔から農耕に恵まれ、収穫も多かった、よって食べ物にはこまら
ない飯の島、飯島(いいじま)であると論考しています、

なく、うらずけはできないようです
石島(いしじま)説 ― 俗説
伊江島は見るからに石の島でそのイシジマからイイジマに
転訛したというもの、チョッと無理があるかな・・
西島(いりしま)説 ― 俗説
伊江島が北山王国支配下の時代(中山世鑑に記述あり)、
北山の主城、今帰仁城の西(いり)に位置するのでイリシマ
と呼ばれそれが転訛しイイシマとなったというもの、しかし、
「石島」も「西島」もそれをうらずける文書はみつかりません
もう一度「海東諸国記、琉球国図」をみてみましょう

今帰仁→伊摩奇時利 瀬底→四四九(世世九?)浦
伊江島→泳嶋(有人居) 古宇利島→郡島 とあるのが確認で
きるでしょうか、さらに国会図書館デジタル版をみてみます

違うのはそれぞれが原本の写し、又は写しの写しだからなのです、写し取
る人によって内容が少しづつ変わっているようです、表紙のカラーの琉球
国図は沖縄に残された写しです
伊平屋島→〇平也島 伊是名島→伊是那島 瀬底島はここで
は師子島と記されているのがわかります
まず今帰仁について考えてみます、今帰仁の語源は「今来神」
です、この事は沖縄学の父と言われる伊波普猷氏もその著書
「古琉球」でナキジンは渡来者の神であると述べていて、南走
平家の研究者達にとっては常識のようです、という事は今帰仁
はナキジンではなく、もともとはイマキジンと呼ばれていた、
1605年僧袋中による著書「琉球神道記」においても今帰仁の事
を「今鬼神(イマキジン)」と記しています、北山王国は滅亡
した国(1416年)であるから「今来た神」は「鬼神」へと変わっ
てしまった、という事でしょうか、「海東諸国記、琉球国図」の
「伊摩奇時利(イマキジン、リ?)」とは「今来神」の事であり、
琉球国図の著者はそのイマキジンという発音を聞き取り「伊摩奇
時利」という漢字を当てた、という事がわかります、漢字表記そ
のものに意味はないのです
古宇利島について考えてみます、古宇利島は地元では「クイ
シマ」と呼ばれ、その語源は「恋(クイ)島」であるとの伝説も
あります、琉球国図の著者はその「クイ・コイ」という音を「郡
(コリ)」という当て字でもって表現しものと思われます、
瀬底島について考えてみます、瀬底島のSESOKO,方言では母音
が変化しSISUKU(シスク)と発音するはずですが地元ではSISIKU
(シシク)と発音しています、琉球国図の「四四九」「世世九」
「師子(シコ・シク?)」と見事に一致しています、瀬底島の
対岸に健堅(ケンケン)という地名があります、そのケンケン
の語源は「権現」であると言われています(参考文献・伊江島の民話集)
「熊野権現」の事です、一時代この健堅の地に熊野権現が祀られ、
その前で権現をお守りするのが獅々子(シシコ)島で瀬底島の島
名の由来であると考えられるのです、


※健堅と瀬底島の位置関係 ※熊野権現をお守りする獅々子(狛犬)
今来神、恋島(開闢神話)、権現などの地名からみて一時代
この本部半島を中心に日本の一大勢力の渡来があった,という事
を物語っているように思えるのです、
さて、伊江島の「泳嶋」についてですが、これまでの「伊摩
奇時利」「郡」「四四九」など「海東諸国記琉球国図」の著者
は音を聞き取りその音に近い漢字を当てて島名、地名を記して
います、著者は伊江島を差し琉球人に「あの島は何という」と
問い、琉球人は「エヰシマ(またはエエシマ)です」と答えた
のです、故に著者は「エヰ・エエ」に近い「泳」の字を当てた
、と考えられます、そういえば伊江島や本部半島の人で伊江島
のことを「エエジマ」と発音していた人結構いたように思いま
す「えらい訛っているな」思ったけど「エエシマ」の方が本来
の正しい発音なのかもしれません、ここで伊江島の古い呼び名
は「エヰシマ」又は「エエシマ」であったと定義したいのです、

地図にもEE ISLANDと記載されています、EEは「エエ」と発音した
のではないでしょうか、(クリックで拡大し確認できます)
「海東諸国記、琉球国図」の著者は実は日本人で博多商人の
「道安」という人物です、道安は朝鮮、日本、琉球、東南アジ
アをまたにかけた海商でした、道安が活躍した時代は第一尚氏
五代王尚金福(在位1445~1453)六代尚泰久(在位1454~1460)の時代
で、あの有名な「万国津梁の鐘」が鋳造されたり、後に第二尚
氏王統を起こす金丸もこの二人の王に役人として支え文化的に
優れた時代であったと言えます、
しかしながらこの時代、道安が拠点としていた那覇や首里と
は特別な商業都市で、まだまだ首里王府の影響の小さい他の地
域とはかけ離れた異空間だったようです、特に本島北部は山が
多く道路は整備されず草深い集落が点在する正に山原(ヤンバル)
の地であったと言えます、が、しかし逆に考えれば中央政府の
影響がおよばない草深い山原の土地であったが故に、昔ながら
の極めて古い基層の地名とその音が残ったと言えるのです、
民俗学者の柳田國男による「文化伝播波動の法則」によると
「日本列島の文化文明の中心拠点より東北国や南島に古代文化
の伝統の形が脚色ないまま保存されている」とし「南島の地名
については隔絶された島しょ群という立地条件から極めて古い
基層地名が無数内包されている」と述べています、
沖縄島において日本文化の伝播は縄文時代早前期に始まりま
す、特に縄文中期阿蘇山や鬼界カルデラの大爆発は九州縄文人
達が奄美沖縄島へと移動する大きな要因となったはずです、こ
の時代に九州島から奄美沖縄島への海上ルートが確立したと考
えられ、縄文後期に至っては沖縄島で独自の文化が開花し、ア
イヌ語と同義とされる九州縄文人たちの言語が沖縄での最下層
的言語として形成されたと考えられるのです、
※沖縄のアイヌ語的地名
以下ー参考文献「南島地名、その沿革」久手堅憲夫ーによる



次回「マンガで探る伊江島の島名の謎」に続けます


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