伊江島・人形館
伊江島の紹介ブログ
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浜崎貝塚発掘調査レポート③Ⅰ,Ⅱ
人形館的伊江島冒険隊!
アケじいの浜崎貝塚発掘レポート③
「これで時代がわかるドッキドキ♡の土器」
そのⅠ、そのⅡ


発掘調査を行った主な人物紹介
伊江村教育委員会Tさん
沖縄県立博物館でも公演を行う南島考古学の
若きスペシャリスト
伊江村教育委員会O君
常に沖縄考古学をリードして来た高宮廣衛率いる沖国大考古
の卒業したてのエリート「土器の目利き」でもあります
アケじい
発掘現場のイノシシ
参考文献
〇 沖縄縄文土器研究序説 高宮廣衛
〇琉球列島の土器・石器・貝製品・骨製品文化 新里貴之・高宮広土
はじめに
Tさん「土器には文様があります、文様は車の銘柄のような
もの、土器の文様で年代が特定できるのです、」
O君 「奄美群島と沖縄諸島は一つの同じ文化圏と思ってく
ださい、」
アケじい「奄美、沖縄の土器は九州縄文土器の影響を受け
ています、人と土器が九州から沖縄へと南下するとき必ず
奄美を経由してくるのです、つまり、「古代奄美・沖縄文
化圏」の重心は常に奄美にあった、と言えますね、ん!
(参考文献、色々)」
Tさん、O君「・・・」アケじい「シカトかな・・」
そのⅠ「沖縄で最も古い土器群(縄文早期、前期)」
※ヤブチ式土器など爪形紋土器の文様です、
爪形紋土器の特徴は指先や爪で土器を押圧成形し、その跡を
そのまま文様としたものです、
O君「この時代は旧石器時代を含め移住して来ては絶滅を
する、移住と絶滅が繰り返された時代と考えられます」
アケじい「縄文時代、早期末、前期初頭は最も海水面が上昇
していた時期ですね、島嶼化が進み、そして何よりも、まだ
まだ寒冷期であった!雪もたくさん降ったのかな?」
O君「そうですね、今の沖縄の海のような海産物に恵まれ
た環境が完成するのは今から4000年前だと考えられています、
6500年前、縄文前期に沖縄島で暮らそうとした人達は食料
の確保に苦しんだ事でしょうね、ほとんど洞窟に閉じこもる
ような生活をしていたと考えられています」
爪形紋土器の発見について
伊江島には画像のようにはっきり
とした海岸段丘があります、この段丘まで海であった時代が
あるという事です、
浜崎貝塚から内陸を見るとチョ
ットした段丘があります、ヤブチ式など爪形紋土器が沖縄
に渡来した時は海面上昇期です、渡来当時、この段丘まで
海であった可能性があり、だとしたら、爪形紋土器が伊江島
に渡来していたのなら、この段丘より内陸だと考えられるの
です、しかし、縄文前期は1000年という幅があります、いつ
渡来し、その時海岸線はどこにあったのか、いずれにしても、
爪形紋土器が伊江島で発見された場合、沖縄考古学の大変な
資料となることは間違いないと思えるのです、アケじい
※参考文献 土器文化の起源をめぐる議論 山崎真治
発掘現場エピソード
そのⅡ「曾畑文化から南島土器の誕生(縄文中期)」
※曾畑式土器
※条痕紋式土器
※室川下層式土器
曾畑式→条痕紋式→室川下層式には共通するものがあ
ります、それは条痕紋です、
条痕紋とは、土器の内面や外面に平行な細かい筋が無数
に認められるもので、木の枝や二枚貝などで器面を整えた
調整痕のことです、
※曾畑式土器の条痕紋
曾畑式の頃は単純な平行線の文様でしたが、条痕紋式にな
ると意匠化が始まり、室川下層式になると幾何学的な文様
へと変わっていきます、
※参考文献 / 条痕紋土器の整理 横尾昌樹
九州を中心に海を渡り広がった曾畑式土器、南から北へと
北上した室川下層式土器などの貝塚時代前2期(縄文中期)
の土器群は琉球列島をダイナミックに展開していた、
※参考文献 / 貝塚時代前2期の土器編年について 横尾昌樹
〇論文より引用
縄文時代前期末から中期紅葉において九州式土器が琉球
列島に搬入されたことはあらためて確認される、曾畑式土
器は古い時代に搬入され在地化したと考えられる、その背
景について、曾畑文化の初期に九州島から琉球列島への人
間集団の植民移住の可能性があったと考えられる、
搬入された九州縄文時代土器は曾畑式以外にも船本式春
日式野久尾式など鹿児島大隅半島を中心とするような狭い
地域に分布する土器も搬入されている、しかし、曾畑式に
比べるとその出土量は少なく、土器の移動は低調であり、
在地化もしていない、つまり、沖縄島で在地化できた土器
は「曾畑式→条痕紋式→室川下層式」という変遷を成し遂
げた限定的な交流にとどまっている、
参考文献 / 土器からみた交流の様相 相美伊久雄〇
アケじい「最初に沖縄で定住に成功したのは熊本県民だっ
た、というこかな」
O君「西北九州にあった文化圏ということですね」


アケじい 「曾畑式→条痕紋式→室川下層式へと変遷を成
し遂げた、それは技術が継承され、伝播され、交流が行
われている、つまり、沖縄での曾畑文化の誕生というこ
とですね」
O君「沖縄曾畑文化が南島独特の土器を生み出したと考
えられます」
アケじい「沖縄の歴史書に中山世鑑なるものがあります、
それには開闢神アマニクなるものが沖縄の国造りを北か
ら始めたというのです」
O君「沖縄本島を北から国頭、中頭、島尻となずけてま
すね」


沖縄県立博物館でも公演を行う南島考古学の
若きスペシャリスト

常に沖縄考古学をリードして来た高宮廣衛率いる沖国大考古
の卒業したてのエリート「土器の目利き」でもあります

発掘現場のイノシシ
参考文献
〇 沖縄縄文土器研究序説 高宮廣衛
〇琉球列島の土器・石器・貝製品・骨製品文化 新里貴之・高宮広土
はじめに
Tさん「土器には文様があります、文様は車の銘柄のような
もの、土器の文様で年代が特定できるのです、」
O君 「奄美群島と沖縄諸島は一つの同じ文化圏と思ってく
ださい、」
アケじい「奄美、沖縄の土器は九州縄文土器の影響を受け
ています、人と土器が九州から沖縄へと南下するとき必ず
奄美を経由してくるのです、つまり、「古代奄美・沖縄文
化圏」の重心は常に奄美にあった、と言えますね、ん!
(参考文献、色々)」
Tさん、O君「・・・」アケじい「シカトかな・・」
そのⅠ「沖縄で最も古い土器群(縄文早期、前期)」


※ヤブチ式土器など爪形紋土器の文様です、
爪形紋土器の特徴は指先や爪で土器を押圧成形し、その跡を
そのまま文様としたものです、

O君「この時代は旧石器時代を含め移住して来ては絶滅を
する、移住と絶滅が繰り返された時代と考えられます」
アケじい「縄文時代、早期末、前期初頭は最も海水面が上昇
していた時期ですね、島嶼化が進み、そして何よりも、まだ
まだ寒冷期であった!雪もたくさん降ったのかな?」
O君「そうですね、今の沖縄の海のような海産物に恵まれ
た環境が完成するのは今から4000年前だと考えられています、
6500年前、縄文前期に沖縄島で暮らそうとした人達は食料
の確保に苦しんだ事でしょうね、ほとんど洞窟に閉じこもる
ような生活をしていたと考えられています」
爪形紋土器の発見について

とした海岸段丘があります、この段丘まで海であった時代が
あるという事です、

ットした段丘があります、ヤブチ式など爪形紋土器が沖縄
に渡来した時は海面上昇期です、渡来当時、この段丘まで
海であった可能性があり、だとしたら、爪形紋土器が伊江島
に渡来していたのなら、この段丘より内陸だと考えられるの
です、しかし、縄文前期は1000年という幅があります、いつ
渡来し、その時海岸線はどこにあったのか、いずれにしても、
爪形紋土器が伊江島で発見された場合、沖縄考古学の大変な
資料となることは間違いないと思えるのです、アケじい
※参考文献 土器文化の起源をめぐる議論 山崎真治
発掘現場エピソード


そのⅡ「曾畑文化から南島土器の誕生(縄文中期)」
※曾畑式土器


※条痕紋式土器


※室川下層式土器


曾畑式→条痕紋式→室川下層式には共通するものがあ
ります、それは条痕紋です、
条痕紋とは、土器の内面や外面に平行な細かい筋が無数
に認められるもので、木の枝や二枚貝などで器面を整えた
調整痕のことです、

曾畑式の頃は単純な平行線の文様でしたが、条痕紋式にな
ると意匠化が始まり、室川下層式になると幾何学的な文様
へと変わっていきます、
※参考文献 / 条痕紋土器の整理 横尾昌樹

九州を中心に海を渡り広がった曾畑式土器、南から北へと
北上した室川下層式土器などの貝塚時代前2期(縄文中期)
の土器群は琉球列島をダイナミックに展開していた、
※参考文献 / 貝塚時代前2期の土器編年について 横尾昌樹
〇論文より引用
縄文時代前期末から中期紅葉において九州式土器が琉球
列島に搬入されたことはあらためて確認される、曾畑式土
器は古い時代に搬入され在地化したと考えられる、その背
景について、曾畑文化の初期に九州島から琉球列島への人
間集団の植民移住の可能性があったと考えられる、
搬入された九州縄文時代土器は曾畑式以外にも船本式春
日式野久尾式など鹿児島大隅半島を中心とするような狭い
地域に分布する土器も搬入されている、しかし、曾畑式に
比べるとその出土量は少なく、土器の移動は低調であり、
在地化もしていない、つまり、沖縄島で在地化できた土器
は「曾畑式→条痕紋式→室川下層式」という変遷を成し遂
げた限定的な交流にとどまっている、
参考文献 / 土器からみた交流の様相 相美伊久雄〇
アケじい「最初に沖縄で定住に成功したのは熊本県民だっ
た、というこかな」
O君「西北九州にあった文化圏ということですね」


アケじい 「曾畑式→条痕紋式→室川下層式へと変遷を成
し遂げた、それは技術が継承され、伝播され、交流が行
われている、つまり、沖縄での曾畑文化の誕生というこ
とですね」
O君「沖縄曾畑文化が南島独特の土器を生み出したと考
えられます」


アケじい「沖縄の歴史書に中山世鑑なるものがあります、
それには開闢神アマニクなるものが沖縄の国造りを北か
ら始めたというのです」
O君「沖縄本島を北から国頭、中頭、島尻となずけてま
すね」


アケじい「そうそう、そして最初に造られた御嶽(ウタ
キ、拝所、神社と考えれば理解しやすいかも)がアスムイ御嶽な
のです、アスムイ御嶽は特定の場所ではなく国頭の山々
を意味しています、そして、アスムイの本来の意味は阿
蘇の森であろうと考えられているのです、
いつものように阿蘇山を見上げていた曾畑文化人たちが
沖縄へと移住してきた、そして、国頭の山々をアスムイ
と名ずけ懐かしんだのでしょうね・・」
O君「・・?」
アケじい「ところで伊江島でも室川下層式土器がでてい
ますよね」
O君「具志原貝塚です、条痕紋式土器も出土していると
説明にありますね」
キ、拝所、神社と考えれば理解しやすいかも)がアスムイ御嶽な
のです、アスムイ御嶽は特定の場所ではなく国頭の山々
を意味しています、そして、アスムイの本来の意味は阿
蘇の森であろうと考えられているのです、
いつものように阿蘇山を見上げていた曾畑文化人たちが
沖縄へと移住してきた、そして、国頭の山々をアスムイ
と名ずけ懐かしんだのでしょうね・・」

アケじい「ところで伊江島でも室川下層式土器がでてい
ますよね」
O君「具志原貝塚です、条痕紋式土器も出土していると
説明にありますね」


アケじい「というと縄文中期初頭、5000年前ですね、
という事は浜崎貝塚よりもだいぶ古いですね(浜崎貝塚
3500年前)、ん?、どうみても具志原よりもオホバ海域に
接した浜崎原のほうが海産物に恵まれてるのに、具志
原のほうが早いのでしょうか」
O君「縄文中期初頭は寒冷期だったようです、※参文/土
器移動の背景 相美伊久雄 具志原にやってきた人たちは漁
労中心ではなくイノシシや内陸の木の実を求めていたと
いう事でしょうか」
アケじい「具志原貝塚人はウニンチュ(漁師)ではなく
ハンターだった、ということか・・、」
O君「これからの発掘調査で又新しいことが分かってく
るでしょうね」アケじい「ん!」
発掘現場エピソード
そのⅢ、そのⅣにつづく


という事は浜崎貝塚よりもだいぶ古いですね(浜崎貝塚
3500年前)、ん?、どうみても具志原よりもオホバ海域に
接した浜崎原のほうが海産物に恵まれてるのに、具志
原のほうが早いのでしょうか」

O君「縄文中期初頭は寒冷期だったようです、※参文/土
器移動の背景 相美伊久雄 具志原にやってきた人たちは漁
労中心ではなくイノシシや内陸の木の実を求めていたと
いう事でしょうか」
アケじい「具志原貝塚人はウニンチュ(漁師)ではなく
ハンターだった、ということか・・、」
O君「これからの発掘調査で又新しいことが分かってく
るでしょうね」アケじい「ん!」
発掘現場エピソード


そのⅢ、そのⅣにつづく


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