伊江島・人形館
伊江島の紹介ブログ
- 2023 . 08 «
- 1
- 2
- 3
- 4
- 5
- 6
- 7
- 8
- 9
- 10
- 11
- 12
- 13
- 14
- 15
- 16
- 17
- 18
- 19
- 20
- 21
- 22
- 23
- 24
- 25
- 26
- 27
- 28
- 29
- 30
浜崎貝塚発掘調査レポート②
人形館的伊江島冒険隊!
アケじいの浜崎貝塚発掘レポート②
「石に刻んだ浜崎貝塚人の思い」を考えてみた、

発掘作業中に見つけた3つの石です、
実際の遺物(出土物)です、
1つ目

であり、その下に横線をひくように彫刻されています、
意味のないイタズラかのように思えました、
2つ目

したら左目の部分、貝のカケラで装飾してあります、
(クリックで拡大)、
洗浄後、右目部分は穴を開けてあることがわかります、


貫通穴が紐などを通すためのものだとしたら、重要
なのは「一つの穴とその下に刻まれた横線」という
ことになります、これは一つ目の石との共通点です、
3つ目

に描かれた横線」の図柄そのものであり、3つの石の共通
点なのではないでしょうか、 私は直感ですが、
丸い穴は太陽を意味し、下の横線は大地いえ、山の
稜線であると思えたのです、つまりこれは日の出の
図柄なのではないでしょうか、
浜崎貝塚は島の東側に位置しています、貝塚から
海に目を向けると、本部半島や国頭の山々が連なっ
て見えます、



浜崎貝塚の人達は、晴れた日にはやんばるの山々から
登る日の出を毎日のように見ていたのです、



の土器片が多く出土しますが、

出土し、弥生文化を象徴する石斧も出土しています、


※石斧

私、個人が断定する事はできませんが、この上層は今から
約2000年前、前後の弥生時代相当期のものではないかと
思えるのです、
弥生・農耕民文化の影響を受けた人たち、つまり、太陽信仰
の人たちがこの浜崎貝塚上層で暮らしていたと推考するのです、

彫刻です、この彫刻からこの浜崎貝塚上層には中国又は朝鮮系
の移住者がいたことが伺えます、農耕民だとおもいます、
おそらく、何かの分けがあって、朝鮮半島から九州西海岸を
経由し南下(南走)して来たのだろうと推考してみたのです。
アケじい


スポンサーサイト
コメント
コメントの投稿
トラックバック