伊江島・人形館
伊江島の紹介ブログ
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力 タンナーパの謎 その3
人形館的伊江島史 力タンナーパの謎
その3「浦添中山考、王国の誕生」
「おもろさうし」の一歌から

※「古琉球」伊波普猷、外間守善
訳
勢理客の神女(ノロ)の アケシ(勢理客に同意)の神女の
雨ぐれ降ろちへ 鎧濡ちへ
運天つけて小港つけて 嘉津宇岳に下る
雨ぐれ降ろちへ 鎧濡ちへ
大和のいくさ 山城のいくさ
※「沖縄に君臨した平家」奥里将建

これは
「運天から上陸した大和、山城の鎧武者どもを、勢理客の
神女(ノロ)やアケシの神女たちが、嘉津宇岳にかかっている
雨雲をよびよせ、願い、雨を降らせ、ずぶ濡れにさせたとさ」
※奥里将建
という後世に謡われた追想歌なのです。

「おもろさうし」とは、16世紀、第2尚氏尚真王の時代から、
沖縄の古い歌謡を収集、編集したもので、沖縄の古事記、
万葉集といったようなものでしょうか、
上限は12世紀とされていますが、貝塚時代のマキョとよばれる
村落が広がっていた時代、(3世紀ころ)まで遡るのではないか、とも
言われています。
※「琉球の歴史」宮城栄昌
では、この「大和、山城の鎧武者達」とは
いったい誰の事なのでしょうか?
自論と公論、平氏か源氏か
説1 源為朝伝説
琉球国の正史に「中山世鑑」というものがあります、これには
「源為朝」であるとはっきりと記されています、

「1156年「保元の乱」において平清盛達に敗れた為朝は伊豆
大島へと流刑にされます、その9年後、1165年伊豆大島を脱出し、
留求(琉球)へと流れ着きます、
その後、為朝は島の女、大里按司(大里村の領主)の娘と結ばれ
て、尊敦(そんとん)という男子を生みます、その子が後に舜天王統
を開いた、」とされているのです、
※「三山由来記集」東江長太郎、など
これが琉球国の正史であり、現在においても公論となって
います。
しかし、源為朝は、実際には沖縄には来ていません、これは
僕、ドラマチック田増がNHKの歴史番組で観ました、
※ちなみに僕の歴史の知識というものは、NHKの大河ドラマや歴史番組に依る
ところの程度のものなのです、でも、NHKの歴史番組は確かな論証のもとに製作
されているでしょうから、中途半端に勉強したり、本を読んだりするよりかは確かな
ものだと思います、
そして、その他、ほとんどの著書においても、やはり為朝は沖縄
には来ていない、とされています、

「中山世鑑」とは、1650年琉球王府によって編集されたものです、
保元の乱は1156年、為朝伝説は、その約500年後、「中山世鑑」に
よって突然現れているのです、
この時代の琉球は薩摩藩の支配下にありました、
「為朝伝説」は薩摩藩の支持のもとで、作られた伝説と考えるべき
もののようです、

薩摩島津は源氏なのです、為朝伝説を作ることによって、琉球王
国は舜天王統から源氏の血縁となり、薩摩島津と同根と解釈させた
のです、
これが「日琉同祖論」の始まりであり、同じ源氏は統合されるべき、
という薩摩藩の琉球侵攻を正当化させる理由とされたのです、
「鎧武者」は「源為朝」ではありません、これは正史ではありません
が史実なのです。
説2 薩摩藩の侵攻
1609年慶長の役というもので、関ケ原の戦いを生き抜いたばかり
の当時としては、最強の薩摩軍が琉球侵攻のため運天港へと上陸
して来ます、

しかし、「おもろ」には、はっきりと大和、山城と記されていて、薩摩
とは記されてはいません、 そして、この時代には、八六調という音
数律の琉歌と、歌三線という歌謡の形ができていて、
※「古琉球」伊波普猷、外間守善,などから
この「おもろ」のような自由な音数律の歌の時代ではないと思われます、
そして、この慶長の役、薩摩軍運天上陸のことは、薩摩側にしっかりと
した記録があり、この日はよく晴れていたそうです、鎧を濡らすような雨は
降っていないとのことです、※「沖縄に君臨した平家」奥里将建
「鎧武者」は薩摩軍ではありません、
説3 南走平家
1184年源平合戦、義経の逆落としで有名な一の谷の合戦の前後、
平家の嫡流である平維盛が、約30艘を率いて、戦線を離脱し、南へと
向かっています、 南走平家の始まりなのです、※「玉葉」

1185年の壇ノ浦の合戦で敗れた平家一門、平資盛らも南へと向かい
キカイ島にて集結しています、※奥里将建、その他口碑など
1187年、鎌倉幕府はキカイ島の平家追討の厳命を下します、
※「東鑑(鎌倉幕府記録)」ここで言うキカイ島は黄海島または鬼界島の事で
薩摩硫黄島の事と考えられます、
その後、平資盛、有盛、行盛の兄弟は奄美大島で再び合流し、
有盛、行盛はこの地で永住することになります、
※「奄美大島口碑など」

壇ノ浦の合戦で惨敗し、南へと向かった平家一門、その南走に追従
した将兵、船頭衆の数は多く、奥村将建氏は約3000騎と著しています、
その平家一門追従の将兵、船頭衆達が沖縄諸島にまで流れ着いた
ことは間違いのない事ようです、


その流れ着いた各地、それぞれの場所で、それぞれの落ち武者伝説
が発祥したようです、八重山、与那国島の「平家墓」がその代表的なも
のなのでしょうか、
「鎧武者」は平家一門に追従した、どこかの一族郎党と考える
べきです、
伊祖城と浦添城
古くから、様々な研究者達が沖縄の事を調査研究されていますが、
浦添城について、最近の調査(※1996~2004年浦添市による調査)による
と「浦添城は英祖王(在位1260〜1299年)によって造られた、」との事
です。
この事は、これまでの沖縄史の常識を大きく覆す発見と言えるでしょう、
「沖縄学の父」と言われる伊波普猷氏など、明治から昭和にかけて活躍
された研究者の方々にも知って頂きたかった発見なのです。

事実上の琉球王国の始祖と言われる舜天王統時代において
、これまでは、浦添城が主城で、伊祖城はその支城と思われていま
した、しかし、この時代に浦添城はなかったのです、伊祖城のほう
が主城の役割をはたしていたという事なのです。
浦添城とは、英祖王による伊祖城の引っ越しだったのです、
「伊祖城は、浦添城と牧港の中間の小高い丘陵にあり、北側から
だらだらとした石坂を登り、まるで一握りほどの小城である、
琉球の城址中もっとも小さい城ではないだろうか、」
※「͡壷中天地」山里永吉
「伊祖城は浦添城をへだたること十町ばかりの山脈続きで、しかも
彼と此れとがその両端をなしている、規模は狭隘(きょうあい)であるが、
要害の点では浦添城に勝っていたのであろう、」
※「古琉球」伊波普猷、外間守善


※伊祖城から牧港を望む
つまり、伊祖城とは城というより軍事的な要塞としての機能を優先
した「砦」だったようです、
伊祖城主は、園祖(伊祖)、そして舜天王統3代目義本王より王位
を受け継いだ英祖となっています、伊祖城主たちは舜天王統と
同時期ではありますが、舜天王統そのものではありません、
では王位である舜天王統は城を持っていなかったのか、
さて、沖縄では「城」のことを「グスク(グシク)」と読んでいます、何故
でしょう、
元々、沖縄はマキョとか呼ばれる狩猟採集の村落が広がってい
ました、貝塚時代です、
ました、貝塚時代です、
その村の領主のことを根人(ニーチュ)と呼んでいましたが、後に、
按司(アジ)と呼ばれるようになります、按司の語源は「主(アルジ)」で、
按司(アジ)と呼ばれるようになります、按司の語源は「主(アルジ)」で、
その按司の住居が「御宿」です、沖縄語の音韻ではグシュクまたは
グシクと読みます、
グシクと読みます、
グシクには、まず、イベとか御嶽と呼ばれる拝所があり、村人が
集う広場があり、そこで神事や舞踏が行われ、村人の財産を守る
蔵があり、グシクを盗人から守る囲いがあり、軍事的な要素を持
たない村人の集会場のような場所でした、※「琉球の歴史」宮城榮昌、など
集う広場があり、そこで神事や舞踏が行われ、村人の財産を守る
蔵があり、グシクを盗人から守る囲いがあり、軍事的な要素を持
たない村人の集会場のような場所でした、※「琉球の歴史」宮城榮昌、など

三内丸山遺跡の集会場
それが、中世になり、グスク時代に入ると、軍事的な要塞としての
役割を持つようになり、グシクにそのまま「城」という漢字が使われる
ようになったと考えられます、


※グスク時代の城、今帰仁城、座喜味城
舜天は源為朝の子ではありません、舜天は古く貝塚時代から浦添
の地に住み着いていた根人の子であり、舜天王統は貝塚時代の
村落の根人から興った王統なのです、そして、舜天王統住んでいた
「グシク」とは「城」ではなく「御宿」であったと考えられるのです、
そして舜天たち、根人の祖先が久高島アマミキヨ(大和人)である
とすれば、中山王国が久高島を崇拝するという根拠に繋がってくる
のです、
訳
伊祖の石城はアマミキヨが築いた城ぞ、伊祖の鉄壁の金城よ
※「古琉球」伊波普猷、外間守善
伊祖城を築いたのはアマミキヨです、元々アマミキヨとはアマミキュ、
奄美人(アマミンチュ)を意味していましたが、この時代には倭人、
大和人の事を言っているのです、
日本、江戸時代以前、西洋人の事を南蛮人と呼んでいました、
西洋人たちは、必ず南洋から船で渡って来たからです、
同じように、古代琉球に渡って来た大和人たちも必ず、奄美を経由
してやって来ました、ですから古代琉球人たちにとっての倭人、大和人
たちは、皆、アマミキヨなのです、

アマミキヨは後に神格化されていきますが、この時代はまだ、大和人
達の総称であったと考えるべきと思われるのです、
もう一度、南走平家の足取りを見てみると、
1184年平家の嫡流である平維盛が南へと逃走します、
南走平家の始まりです、
1185年壇ノ浦で敗れた資盛、有盛らが南走し、喜界島、奄美大島へ
と落ちのびます、当然、追従の将兵、船頭衆も南へと向かい、沖縄
諸島へと渡ってきます、
1185年壇ノ浦で敗れた資盛、有盛らが南走し、喜界島、奄美大島へ
と落ちのびます、当然、追従の将兵、船頭衆も南へと向かい、沖縄
諸島へと渡ってきます、
1187年琉球で舜天王統が誕生します、その成立時、同じ場所に伊祖
城という砦を築いた伊祖氏がいました、
この時系列は単なる偶然なのでしょうか、
城という砦を築いた伊祖氏がいました、
この時系列は単なる偶然なのでしょうか、
しかも、伊祖城を築いた伊祖氏とはアマミキヨ(大和人)でなのです、
時系列にあわせてみれば南走平家の一党と考えるのが自然の流れ
のようです、

そして、「伊祖」という漢字は中山世鑑による当て字なのです、
では伊祖イソisoとは実際どのように発音されていたのでしょう、
沖縄語は3母音制です、「あいうえお」は「あいういう」と発音されます、
ですから、isoはisu、しかし、ここのuは鼻音です「す」ではなく「すぅ」
と発音したほうが近いでしょうか、「伊祖」は「いすぅ」です、
では、これに近い大和姓を探してみると、「伊勢ise」だと思うのです、
iseはisiでsiのiは鼻音で「すぃ」と発音します、「伊勢」は「いすぃ」です、
平清盛一族は伊勢平氏です、「伊勢の国」をその拠点としてきました、
「いすぅ」にあう姓を探すにあたり、「伊勢の国」を絡めていくのが妥当
であると思えるのです、
南走平家の一団として浦添の地に入り、「イスゥ」の砦を築き、浦添の
根人(領主)尊敦を担ぎ上げ、王国を築いたのは「伊勢氏」または「伊勢
の国人、伊勢衆」ではないでしょうか、
ですから、isoはisu、しかし、ここのuは鼻音です「す」ではなく「すぅ」
と発音したほうが近いでしょうか、「伊祖」は「いすぅ」です、
では、これに近い大和姓を探してみると、「伊勢ise」だと思うのです、
iseはisiでsiのiは鼻音で「すぃ」と発音します、「伊勢」は「いすぃ」です、
平清盛一族は伊勢平氏です、「伊勢の国」をその拠点としてきました、
「いすぅ」にあう姓を探すにあたり、「伊勢の国」を絡めていくのが妥当
であると思えるのです、
南走平家の一団として浦添の地に入り、「イスゥ」の砦を築き、浦添の
根人(領主)尊敦を担ぎ上げ、王国を築いたのは「伊勢氏」または「伊勢
の国人、伊勢衆」ではないでしょうか、
「いすぅ(伊祖)」と「いすぃ(伊勢)」文字で比較してみると多少違いが
あるように思われますが、文字を持たない当時の沖縄文化にとっては
「伊勢(いすぃ)」も「園祖(いんすぅ)」も「伊祖(いすぅ)」「英祖(いーすぅ)」、
それに伊祖城のある古い地名「イーズ」も含めみんな同じ音で、その
語源は全て「伊勢」なのです、
学校で文字を習い、学習し、詳細に分類しようとする現代人の感覚と、
近年まで現役で使われていた沖縄語、沖縄方言の感覚との大きな
違いといえるのでしょう、
では、「舜天王統」と「伊祖城、伊勢衆」はどのような関係だったので
しょうか
「兵庫県の北部、但馬の城崎郡に、平教盛らが落ちてきたという、
人名まではっきりと伝えられた平家村として有名な御崎部落です、
教盛は6人の随従者と共に村に入ったと伝えられている、
今日においても門脇家を中心とした31軒の山部落で温かく、働いて
いるといいます、

平家の人々は色々な意味で身近な人々から慕われる魅力を
もっていたようです、」※「沖縄に君臨した平家」奥里将建
同じようなことが浦添の地でもおこったのではないでしょうか、
浦添の地に流れ着いた伊勢衆は、数で勝る尊敦村の住民たちを
武力で抑えるのではなく、村にとけ込んでいく事を選んだ、その土地
の実力者に抱え込んでもらいながら、この地を治めようとした、つまり、
摂政政治を選んだのです、
「おもろさうし」から

※「いくさもい(戦さ思い)」、戦さを企てる人の事
※「とももと(共元)」共に、の事
※「わかてだ(若い太陽)」若き国王の事
※「はやせ(栄やせ)」栄えよ、の事
訳
伊祖の戦さ思い(軍師、摂政)よ、
月ごとに遊び楽しみ給え、
若き国王よ、ともに栄えよ、
けなげに戦さ思いは
夏は(国王に)神酒を盛り
冬は(国王に)御酒を盛る
※「琉球の歴史」宮城榮昌などから
伊祖(伊勢衆)と舜天との関係の歌であると思えます、舜天が
王位に就いたのは15才と伝えられています、
実際、伊祖城最後の城主、英祖は、舜天王統最後の王、義本の
摂政を7年間務めたと伝えられています、英祖の父、園祖も摂政で
あった可能性は高いと言えるでしょう、
※「古琉球」伊波普猷、外間守善、などから解釈してみた
武家政治の始まりである平清盛を支えた平家一門一党は非常
に優秀だったことは皆さんの知るところでしょう、
浦添の地に流れ着いた伊勢衆の航海術、貿易、本格的な農耕技術、
そして武術などは、貝塚時代の人々にとっては、目を見張るような技
術だったのだと思えるのです、
代々、伊祖城主たちは舜天王統の摂政であった、のです、
舜天王統3代目、義本王は伊祖城主の英祖に王位を譲ります、
事実上伊勢衆による政権の奪取、英祖王統の始まりです、
さて、この平家の落ち武者の王統、英祖王統はどのくらい強
かったのでしょうか、
鎌倉時代、日本を揺るがす大きな出来事がありました、
1274年の文永の役、1281年の弘安の役、つまり、元寇の襲来です、
この鎌倉幕府を震え上がらせた元の大軍が沖縄、琉球王国にも
押し寄せて来たのです、
英祖王の晩年、1291年、弘安の役から10年後、元の楊祥は兵
6000を引きいて瑠求攻略を行ったが、海洋で沖縄の一山軍に敗れ
上陸することなく敗退しています、※一山軍という事ですから琉球全軍では
なかったという事です、海洋民族沖縄人の底力という事でしょうか、


その5年後、1296年今度は張浩によって瑠求攻略が行われます、
しかし、上陸はしたものの、瑠求人は防戦し、張浩は手の施しようが
なく、島民160人を捕虜にして引き返した、とのことです、
※「琉球の歴史」宮城榮昌

北条時宗ら鎌倉幕府を震え上がらせた元の大軍を、南方の小さな島
の王国が2度も追い返しているのです、英祖王統強し!
この英祖王の次男、湧川王子は沖縄本島北部へと入ります、

そしてその子孫たちが後に「北山王国」を築きあげるのです、
伊勢衆による琉球王国の建国、その目的は「北山王国」によって
受け継がれたように思えるのです、
次回は琉球王国建国の謎に迫る、 その4「なきじんコード」にて


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