伊江島・人形館
伊江島の紹介ブログ
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力(ちから)タンナーパの謎
人形館的伊江島史 力 タンナーパの謎
その1 タンナーパ(玉那覇)伝説
伊江島、伝説の英雄 力(ちから)タンナーパ

※クリックで拡大できます。
いったい彼は何者だったのか、
今回は、この人物について一歩踏み込んで探ってみようと思います。

伊江島で英雄と伝えられている力(ちから)タンナーパ、
彼はいったい、いつの時代に生き、どのような功績を残し、どうして
伝説化していったのか、実は伊江島でも詳しくは伝えられてはいな
いのです、
今回は、この人物にせまってみようと思います。
まず、タンナーパの伝説を拾い集めてみましょう、
①大食い伝説
タンナーパの母親が味噌を作るために、シンメーナービという大鍋いっ
ぱいに大豆を煮ていたところ、母親が少し留守をしていた時に、タンナーパ
が鍋の大豆をすべて食べてしまった。

②怪力伝説
タンナーパが鍋の大豆をすべて食べてしまったことを知った母親がタン
ナーパを叱ったところ、タンナーパは大きな石を持ち上げ家の入り口を
ふさいでしまい、母親を家の中に閉じ込めてしまった。


③大軍撃退伝説
ある時、伊江島に大軍が押し寄せてくることを知ったタンナーパと
村人たちは、城山に立てこもり、それを迎え撃つことにした、
村人たちはカマドの灰を持ち込み城山の各所に身をひそめ、近ずいて
来る敵兵に向かってその灰を撒き散らし、目潰しをした、
そこへタンナーパたち力自慢の男たちが石を投げかけ、敵を撃退した
との事です、とかくタンナーパは怪力の持ち主だったようで、大きな石を
投げかけ敵に大打撃をあたえたとのです。

④城山山頂につけた足跡伝説
大軍との戦いで城山山頂で大石を投げかけたタンナーパは、その時の
ふんばりでできた足跡を山頂に残したとされています、


⑤タンナーパの「不可解な死」伝説
タンナーパの死については二つの伝説があります、
一つは、彼タンナーパが力自慢をして、城山山頂から、近くのヤプスンジ
へと飛び移り、そこから海岸付近へと飛び移り、そしてそこからまた、
水納島へと飛び移ろうとしたが、途中、海に落ち死んだ、という話

もう一つは、ある夜、タンナーパが誰かに声をかけられたので、何
のためらう事もなく「ハイ」と返事をしたら、それは魔物だった、そして、
そのまま命を奪われてしまったという話、
どちらもまともな死に方はしていないようです、
⑤タンアーパに関する悪い噂
タンナーパは伊江島の英雄にもかかわらず悪い噂もあるのです、
彼、タンナーパはグスク屋敷の番人だったそうで、その番人の役目
の一つに、浜に流れ着く、海で遭難した人たちの遺体の埋葬の仕事が
あったそうです、
昔は船での遭難事故が多く、その遺体が伊江島の浜にもよく流れ
着いたそうです、
タンナーパはその遺体を埋葬するのですが、その時、遺体が持って
いた財布を抜き取ったり、金目のものを抜き取ったりして、着服して
いたという、そういう嫌な人間だった、という噂話があります、
伝説の考察です
①大食い伝説、②怪力伝説
この辺は今でも絶対いますよね・・、お相撲さんとかにいそうです
③大軍撃退伝説
タンナーパを知るうえでもっとも重要なポイントはここにあると思います、
タンナーパや村人たちはいったい誰と、どの大軍と戦ったのでしょうか、
説1、民話にある一つは「盗賊団」説です、
みなさん、チョットだけ考えていただけないでしょうか、
もし、みなさんが盗賊であるとした場合、盗賊団として伊江島に船で
乗り付けるのです、そうしたら、伊江島のおもだった人たちが武装して
城山に立てこもってしまうのです、
畑には盗賊団と戦う人たちがいない、民家にも同じように戦う人たち
がいない、力のある人たちがみんな城山に立てこもっているのです、
盗賊として、こんなにありがたいことはほかにないではありませんか、
畑の作物は盗み放題、民家に入って金目の物は盗み放題、わざ
わざ城山に攻め込む必要などないのです、「ありがとう、また来年
きますのでよろしく!」といったところでしょうか、
つまり、この軍勢は盗賊ではありません、城山に攻め込んでいるの
です、伊江島の制圧を目指す統制のとれた軍隊であることがわかります、
「統制のとれた軍隊との戦い」この事でタンナーパはグスク時代の人、
とくに三山時代に生きた人であることが推測できます、
説2、さらに、「北山、今帰仁軍」説です、
一般に島で伝えられているのが、この「北山、今帰仁軍」説なのです、
しかし、この説は絶対にありえません、多くの歴史家たちも「ありえない」
と認めるところです、
それは伊江島の開拓の歴史が北山、今帰仁城に大きくかかわって
いるからです、
伊江島の本格的な開拓の歴史は、久米三十六姓の流れである
「サビ(佐辺?)一族」が伊江島に入植することにから始まります、

もちろん、それ以前にも人は住んでいたのですが、伊江島では
その時代のことをミノの時代とよんでいました、つまり、服など
を着ないでカヤ草で作ったミノ(カッパ)をはおって、少数単位
で暮らしていたようです、
開拓前の伊江島は、犯罪者たちの流刑の地として利用されて
いたとの事です、そういう人たちが多くいたのでしょうね、
サビ一族が入植し、本格的な農耕が始まります、その時、盗賊団
がたびたび、押し寄せるようになったのです、
盗賊団に悩まされていたサビ一族は北山、今帰仁城に自ら入貢
(納税)し保護を求めたのです、それは第3代北山王ハンアンチ按司
の時代(1419年より少し前)の事です、

あたりが上サビ(ウィーサビ)といわれる屋敷跡

グスク屋敷跡
今帰仁城の記録にも「縷縷(たびたび)、船で襲来する野盗に悩ま
される島民は北山に野盗退治の申請をし、三人の武士が派遣され
た」とあります、
北山、今帰仁軍は伊江島を守る立場であり、攻め込む理由も、
必要もなく、北山にも「伊江島に攻め込んだ」という記録はないのです、
※注意、中山世鑑には記録上北山王国の初代王といわれるパニジ王の時代(1322年頃)
に伊平屋島、伊江島を制圧したという記述がありますが、これは武力による制圧ではなく傘下
に収めたとの解釈が一般的なようです、
伊平屋島はともかく伊江島での農耕の始まりはもう少し後で、このパニジ王による制
圧とは事実上の北山、今帰仁城による伊江島開墾の歴史の始まりと考えられるのです


では、なぜ北山、今帰仁軍と戦ったという伝説になったのでしょうか、
それはその後伊江島におこる歴史の変化ということでしょうか
説3、そしてもう一つ「竜宮」説です、
民話にこういうのがあります「かつて、伊江島は竜宮と二度戦った」
という伝説です、
竜宮、それはニレ(ニライカライ、海中にある神の国という意味)の
国の城、つまり琉球王国、中山との戦いを意味しているのです、
民話にも浦添中山、尚巴志との戦いのことが語られています、
伊江島の開拓が始まった時代、北山今帰仁城主ハンアンチ按司は
、中山浦添城、後に琉球王国を統一する尚巴志と敵対していたのです、
※北山と中山とは初代ハニジ王から3代ハンアンチ王まで70回近く戦った
と伝えられています

当然、北山の保護下にあり、北山傘下の伊江島も中山との戦いに
巻き込まれていくのです、
そうです、 伊江島に船で押し寄せてきた大軍とは中山、
浦添軍だったのです、
そして タンナーパや村人たちにも命をかけて守らなければならない
何かがあったのではないでしょうか、
④城山山頂につけた足跡伝説
まあ、伝説ですから・・、大相撲の白鵬や逸ノ城が岩山である城山
山頂でシコを踏んでも足跡は着かないでしょうね・・
⑤タンナーパの「不可解な死」伝説
中山軍との戦いに関係しているようです、後でジックリ考察します、
⑥タンナーパに関する悪い噂
これも伊江島の歴史の変化によるものだと考えます、後で考察します、
まとめ
これらの伝説、史実などから
〇伊江島の開拓は北山今帰仁城の保護の下で行なわれていた事、
〇伊江島の開拓当時は、北山と中山が敵対関係にあった事、
〇その北山と中山の対立に伊江島が巻き込まれ、タンナーパや村人
達は北山側の武将達とともに中山軍と戦っている事
この事から北山側の武将の中に力タンナーパによく似た人物が
浮かび上がってくるのです、
その人物とは 玉城(タマグシク)ヤカー、
タンナーパと玉城ヤカーとの類似点は次の記事で色々取り上げる
事にしますが、ここで一つだけ、力タンナーパの本姓は玉城なのです、
ここまでの記事は、沖縄の歴史をある程度理解している人ならば
ピーンと来るはずですが、なかなか理解できる人は少ないと思います、
古琉球の歴史って学校では習いませんからね、
次の記事、「その2」では、北山って何、中山って何、ついでに
琉球の始祖といわれているアマミキヨ伝説についても、大胆な推理
とともに探ってみたいと思います、
「その2、浦添、中山考」へ続けます。
※参考文献
伊江村史 伊江村教育委員会
伊江島の民話 伊江村教育委員会
琉球の歴史 宮城榮昌
古琉球 伊波普猷


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